病気になって生活がゆっくりになっても、時は待ってはくれません。 20代の私が迫られた決断は、学業と就職でした。 学生生活の継続が難しくなった時は、さすがに退学を覚悟しました。 が、学校や家族と相談した結果、まずは休学することにしました。 復学できる保証はまったくなかったけれど、 休学期限まで可能性に賭けてみて、ダメならその時に結論を出すことに。 結果、冬休みや夏休みも含めて、約8ヶ月をつぶす形にはなりました。 その間に、自分なりの薬のコントロールを身につけることができて、 半日なら起きていられる、教室の移動ができるまで復活。 復学にこぎつけることができました。 (無事に卒業することだけを考えたギリギリの単位でしたが) 今思えば、本当に奇跡的。。。 通学、校内のバリア、講義時間内の体調管理、昼食戦争、荷物の減量…etc。 復学後もいろいろ問題はありました。 けれど、ギリギリまで可能性を探ることができたことが、 結果的に卒業にこぎつけられた要因だと思います。 仮に、条件が整わず復学できなかったとしても、 きっとあきらめはついたと思うのです。 打てる手を打った末の結果でしたから。 就職活動にも一応足を突っ込みました。 が、今思えば、毎日出勤できる保障がない不安定な体調… さらに、自力で通勤できないという段階で、 職種や就業条件以前の問題だった気がします。 ドタキャンの常習だったので、面接までたどり着けませんでしたが、 それでも就職への思いは尽きませんでした。 その間に、同世代がどんどん社会人になっていきました。 隠し切れない焦りが出て、平常心を装いながらもイライラする日々。 せめて内職を…本を書くとか…資格だけでも…すごい執念でした。 ある日、ついに見かねた父から引導を渡されることに。 『人と違う人生もある』と。 ショックでした。 でも、正直どこかでほっとしていた自分がいました。 家でできることをしながら暮らしてみよう。 そこから何か見つかるかも知れないと、発想を転換することに。 これからの生活のため、役所の福祉窓口にも相談に行きました。 これが私の事実上の就職活動だった気がします(汗) 救いだったのは、障害者手帳の交付や年金制度に助けられたこと。 生きるために必要だから、それらに対する躊躇もなかったし、 家族もそれを十分理解してくれていたようです。 この2つの決断に共通するのは『可能性』。 可能性があるなら、学校や役所、家族ととことん相談してみること。 それでもダメなら、気持ちを切り替えて別な道を探ること。 まずは、今できることからやってみませんか? |
その後の私は、いわゆる“老後”のような生活になりました。 仕事にも家庭にも属さない生活には、マニュアルがありません。 規則正しい生活も、惰性で暮らす生活も、すべて自分次第。 今の自分にどんな暮らし方があるのか、ずっと考え続けてきました。 約8年、老後を暮らしてみて思ったことは、 どんな小さなことでも目的意識を持たないと気持ちがまいってしまうということ。 公園まで散歩に行こう、料理を作ろう、資格を取ろう、本を読もう、 あのテレビを見よう、美味しいものを食べよう…なんでもいいのです。 何か1つ目標を見つけると、生活観が生まれてきます。 1日の生活リズムを作る。 といっても、年がら年中体調に左右されるわけだから、 一般人と同じ規則正しい生活は無理かもしれません。 あくまで自己流です。 私は朝紅茶を飲むのが日課になっています。 薬で体のエンジンをかけて、それからノコノコ動き出します。 一応日程は立てるけれど、あとは体と相談。 歩けそうなら軽い掃除や外出もするし、ダメなら部屋で趣味をしてみたり。 毎日が予定通りにいかない、行き当たりばったりの生活。 それでも1日1日を上手にやり過ごすことが、 自己流のコツかもしれません。 |