リスクにトライする勇気 |
私のRAは初めの10年でほぼ症状と障害が固まり、 20年目の課題は『いかに現段階の安定を維持するか』でした。 現在、RA治療の主流となってきている『生物学的製剤』は、 私が30代初期の頃、普及し始めていました。 施す治療に頑として抵抗していた頑固者の私のRAも、 リウマトレックス+エンブレル(生物学的製剤)で一定の効果が出ました。 生物学的製剤の普及は、RA治療の大きな進歩なのです。 新薬を使うことで考えることは様々あると思います。 副作用のこと、費用のこと、自己注射のこと・・・ 自分の体に合う新薬を探すためには、リスクがあります。 私も口内炎の副作用が出てエンブレルの投与を中止たり、 効果が続かず薬を変更したこともありました。 けれど、探す勇気を持たないと治すことは100%できません。 また、費用面では交通費の負担軽減のために自己注射に切り替えました。 (障害でバスに乗れなかったので、通院はタクシーでした。) 『よく踏み切れたね~Σ(・0・ノ)ノ!』『怖くなかった?( ̄▽ ̄;)』と、 自己注射に上安を感じている方から聞かれることがあります。 けれど、当時の私には、交通費の現実の方がリスクが高かったので(^^; (月20,000円の交通費なんて無理・・・) すでに自己注射をしている人がいるし、私にだってできないはずはない! 時間をかけて看護師さんから指導を受けながら、 力のない手先でも注射する方法を模索し、今に至りました。 医療費の負担についても、主治医に率直に相談。 初めから全量を使用するのではなく、半量から使うことで費用を半減。 最終的には全量の治療になりましたが・・・ 体が安定して就職ができたことで、治療を維持しています。 RAを乗り越えるためには『勇気』も必要です。 けっして『強い人だからできる』というわけではありません。 今、多くの患者さんたちが生物学的製剤のリスクと戦っています。 どうか皆さんの体に合う治療法が見つかってほしい。 その治療の負担が少しでも軽くなってほしいと願っています。 |
道はひとつじゃない |
生物学的製剤で体が安定したことで、 ようやく『就職』という道を考えられるようになりました。 今でも手先には障害が残っているので、 人の手を借りなければ生活できていないことに変わりはありません。 けれど、様々な体験をしながら、手を借りることでできること、 お願いされる人の気持ちを考えてバランスをとることを覚えました。 『何ができて、何ができないのか』『どうすればできるのか』 『できないとして、どこまでが自分の“できるライン”なのか』 『どんなことについて人の手が必要なのか』 職場デビューまで、1つ1つ時間をかけて自分を徹底的に分析。 その上で、自分の身の丈に合う仕事を探しました。 リウマチックな就活事情や仕事での話を聞かせていただいていて感じることは、 『本当にそこしか道はないのだろうか』ということでした。 もちろん、目指すものは誰にでもあると思います。 仕事や家事や子育てをバリバリやってきた人にとって、 失ったものはとてつもなく大きいし、できるなら元どおりに戻りたい! 私も失った20代~30代の『経験』という財産を取り戻すのに、 この数年、必死になっていました。 けれど、本当にその道だけが人生のすべてなのでしょうか? 元に戻る以外の道を探り始めた時から、 自分の新しい生き方が開けた気がします。 違う自分を探してみると、意外な発見や出会いがあります。 そして、助けてくれる人が意外にたくさんいることを知ります。 理解が得られず、辛い思いをした方もいると思います。 けれど、今いる環境を思い切って飛び出してみると、 理解が得られる環境や仕事が他にあることを知ることができます。 この体やこの病気を受け止めて、今できることをやっていく。 できないことを克朊しながら、新しい道を1歩ずつ前に進んでみる。 歩みは遅いかもしれませんが、少しずつできることを増やしていけばいい。 人と同じじゃなくてもいい。過去の自分と同じじゃなくていい。 自分なりのやり方でできる方法を探していけばいい。 『過去の自分ではなく、今の自分を生きていくこと』 それがRAを受け入れることであり、どうにもならない辛さから脱する方法。 今の体に合う新たな自分流の生き方を探すことができれば、 体だけでなく、自分自身の心とも上手に付き合っていけます。 今の自分のいいところ、見つけてみませんか? |
目標を作ればおのずと前に進める |
『20代をやり直す』それが私の30代だった気がします。 30代の私は、好奇心と探求心に突き動かされていました。 たぶんそれは、できないことを我慢してきた20代の反動(笑) 35歳を過ぎてから本格的に足を突っ込んだ「20代のやり直し《は、 全身型の障害のおまけ付きの新しい人生のスタートでした。 まず、やってみたいことをメモに書きだしました。 『バスに乗れるようになる(できれば普通バス)』 『資格を取る(MOS、FP、医療事務、薬局事務、行政書士など)』 『仕事に就く(内職、パート、正社員へ少しずつ幅を広げる→親に食事をプレゼント)』 『車に乗れるようにする(車の改造、運転訓練、維持費、次の購入費)』 『自力で外に出られるようにする(サークル、ボランティア)』 『(当時描いていた色鉛筆画の)個展を目指す』 『自分本位で動ける自信をつける』 『車のためのひとり暮らし(家族に運転を理解がもらえなかった場合)』 ・・・ざっとこんな感じ。 これ、20代の時も実はやってました。 『歩けるようになる』『公園まで行けるようになる』 『包丁を使えるようになる』とか、 目標のスケールが全然違ってましたが(^^; 1つ1つに必要なことは何か、じっくり自分と向き合ってきました。 とはいえ、体が安定しても障害が残る私には、何をするにも壁だらけ。 でも、『普通じゃない』ことを受け入れることができた私は、 ある意味怖いもの知らずでした。 できなければ、できる方法を根気強く探す(それこそ何年もかけて)。 バスのステップが高いなら、携帯できる踏み台を作れば何とかなる?と、 試作品を作ってみたり(結局、別な目的に使用(笑))。 資格1つ取るにも(物理的に)取れる資格は何か? 受験会場までのアシはどうすれば確保できる? そこから発展させて、できそうな仕事は?通勤手段は? 1つ1つ社会のあたりまえの物差しではなく、 自分の物差しで測っていく。 できないことを無理しても絶対に続かない。 できることをやってみよう・・・ それは20代も30代も同じ考え方でした。 |
環境 ~20年後の未来~ |
今、RAの症状と戦っている方にとって、 今という環境を『なんて辛いんだろう』と感じる方もいると思います。 20年前の私もそうでした(「10years Anniversary《サイト参照)。 20代の私は『これ以上の回復は難しい』と主治医の告知を受けていました。 まだまだ若い世代のRA情報も少なく、 若年層のRAライフには通用しない情報しかない時代。 これからどうなるのか、どうしたらいいのかもわからず、 ネットで知り合った先輩や同世代の方の体験談や情報交換が、 唯一の生きる手がかりでした。 それから10年でRA医学は大きく変わりました。 当時の薬物治療の最先端だった『リウマトレックス』に加え、 現在主流になっている『生物学的製剤』が登場☆ その数は今なお続々と増え続けています。 人工関節の手術や入院期間も20年前の3分の1にまで短くなり、 その性能もぐっと上がってきています。 『就労上能』と言われた私も、生物学的製剤の効果で、 何とか働けるようになりました。 確実に医療の進歩を感じます。 15~20年と言われた人工関節の寿命も、 いつか一生涯使えるようになるかもしれない☆ 人工関節の可動範囲も、正座したり走ったりできるくらい、 万能になるかもしれない。 「今《できないと困ることもあると思います。 その歯がゆさは、私もたくさん経験しているからよくわかります。 けれど、20年RAと付き合ってきてあらためて言えることは、 その辛さは『ず~~~っと永遠に今のままではない』ということ。 今、とても辛いかもしれません。 でも、今は、今できることをして一生懸命生きてみませんか? そうすることできっと道は開けてきます。 一度そういう経験をすると、人間そのものが成長します。 今辛いことは、絶対無駄にはなりません。 その苦難の道は必ず未来の自分を支えてくれます。 |
環境 ~『ある』から『作る』へ~ |
『~だからできない』・・・何度も思ったことです。 でも、問題は「できなかったらどうするか《だと思います。 もちろん、あきらめたことはたくさんあります。 けれど、こんな私を理解して助けてくれた人との出会いがありました。 そして、『人に頼る』ことでできる幅が広がることもありました。 その1つ1つが『開拓』であった気がします。 30代でようやく就いた職場でも、人に頼ってばかりです。 初めはどこまで人に頼んでいいのかわからずビビっていたし、 周りもまた、どんなことができなくて、何を手助けしていいのか、 お互いに手探り状態でした。 そんな時に気づかされるのは、『相手に理解がない』のではなく、 『自分の説明上足』だということ。 『これができないので手を借りてもいいですか?』と 思い切って助けを求めることで、多くの人が手を貸してくれました。 常連になったお店の店員さんは、私の顔を見ただけで、 ペットボトルのキャップを開けてくれるようになりました。 上司が力仕事に自ら声をかけて手を貸してくださったり、 できるとわかった仕事は極力ふってくださったり。 もちろん、それでも嫌がったりめんどくさがったりする 職場や人もあると思います。 すべて思いどおりにはいかないし、私も多少の無理はしてます。 けれど、そんなお互いのすり合わせによって、 実際に今ある私の環境ができあがってきたのは確かです。 『できない』『助けてほしい』を表に出すことで、 お互いを理解しバランスがとれて、スムーズな流れができてきます。 私もすっかり『傍若無人』になってしまいましたが・・・(^^; 『助けてほしい』を繰り返しながら、少しずつ理解を増やすことで、 環境って出来あがっていくのだと感じています。 環境は初めから『ある』のではなく、ないところに『作っていく』もの。 それが上手にできるようになれたら、きっと世界は広がる。 私はそう思って毎日を過ごしています。 |
克朊 ~30代の3大チャレンジ~ |
30代、私は3つの大きなチャレンジをしていました。 それは現役世代の抱える3つのテーマです。 ①仕事 30代半ばでスタートさせた就職活動。 仕事は学生アルバイト以来で就活にブランクがあったため、 まずは『キャリア』をつけることを考えました。 なんとかできそうなのは、『話すこと』と『パソコン』。 そこで、MOSの資格を取ることにしました。 ※MOS(マイクロソフト・オフィス・スペシャリスト) まずは試験会場に行くためには低床式バスに乗れないと! 田舎では走行本数が少ないし、走る時間も未定。 事前にバス会社に走行状況を確認しながらのチャレンジでした。 本屋さんでテキストを探すのは物理的に無謀なので、 ネットでテキストを買い、独学すること数カ月・・・ バスを克朊できたタイミングで検定試験を申し込み、 何とか資格を取ることができました♪ キャリアが1つできたことで少し自信をつけた後、 いよいよハローワークへ。 担当者に障害のこと、職歴がないことを包み隠さず相談し、 職探しの条件を次の3つに絞ることにしました。 『バス+徒歩で通勤できる』『内勤のデスクワーク』『残業・外出がない』 結果、障害者枠で面接を受けて今の職場に決まったという経緯でした。 病気を抱えての就活でよく質問に挙がるのが、 『病気のことを職場に話すかどうか』ということ。 私の場合、隠して仕事ができる状況にないので、 ハローワークを通じて事前に障害状況を求人元に話を通してもらい、 理解をいただけるところの面接に臨んでいました。 もちろん、ハローワークと先方のやりとりの段階で 面接を拒否されることもありました。 この就職難・・・10回や20回の面接で決まるなんて 初めから思っていません。 まして、重度のおまけ付きの身体障害者・・・簡単に決まるわけがない。 だからといって、病気を偽って決まってもきっと長くは続かない。 なので、あえてさらけ出す戦法に出ました。 でも、その上で面接してもらえたので、 病気やできない仕事の内容も先方はきちんと話を聞いてくださり、 逆に先方からの質問もいくつかありました。 ダメでもともと、正直に答えました。 それでダメなら万事休す。。。その後、採用が決まりました。 職場では、自己紹介の時から『手を借りることがある』ことを伝え、 すべては『ダメもと』。。。当たって砕けろの毎日です。 私の部署には障害者はいません。 けれど、幸い、理解をいただいて今に至っています。 仕事によってはしんどいこともあるし、 人にお願いするたび心苦しいです。 けれど、そうしないと相手にも伝わらないし、 お互いの仕事を遂行することもできない。 伝えることは障害を持った私の『義務』だと思ってます。 そんな状況の中、快く手を貸してくださる方々に心から感謝しています。 TOPページに戻る ②車の運転 車の運転を再開することを考え始めたのは、 最後まで克朊できずにいた『サイドブレーキ』の問題が 『フットブレーキ』に変わってきたことがきっかけでした。 車の運転は17年のブランクがありました。 家族にも過去にそれとなく相談したことはありましたが、 あまりいい返事をもらえず、 協力を得ることは初めからあきらめていました。 そこでまず足を運んだのは『警察署』。 ネットで調べたところ、障害者が運転する場合は『適性検査』を受けて、 必要な装備を備えた車を運転するという決まりがあるんだとか。 障害についての状況を説明し、運転を再開する手続きはどうすればいいか、 また、障害者が安全に運転の練習ができる場所があるのかを相談。 まず、症状が安定し運転が可能な状態であることを証明する 『診断書』が必要になるとのこと。 が、先に相談した病院の看護師さんが 『万一事後を起こした際に責任を問われるのではないか』と懸念し、 書いてもらうことができませんでした。 再び警察署に連絡を取り、責任問題について問い合わせたところ、 あくまで『事故は運転手の責任であり病院に責任を問うものでない』ことを確認。 やっと診断書をもらい、警察署を通じて『適性検査』が必要性かを確認。 『条件付きの運転により適性検査は上要』との回答がありました。 運転の練習は、教習所にしばらく通うのが良いだろうとのこと。 障害者の教習を受け入れてもらえるかどうか、 さっそく教習所に相談に行きました。 すると、半身麻痺の方の教習経験がある教官がついてくださることに。 実車しながら障害に合わせた運転方法や車両の改造について、 あれこれ相談に乗ってもらえることに! 実際に乗ることを想定し、あまり教習には使わない軽自動車に乗車。 旧式だったサイドブレーキは教官が操作し、 ギアの感覚や首の障害によるミラーの死角をじっくりと確認。 ハンドルを要領よく回せない分ブレーキで補いながら運転することで、 運転の勘はすぐ戻ってきました。 (教官の、障害による運転のクセを見抜く目はすごい!) 路上に出て、通勤を想定したルートを実際に走り、 夜間教習を体験して実車は終了。 個性豊かな(?)障害者を受け入れてくれたことに感謝です。 その後、ディーラー巡りをスタート。 障害を紙に書きだし、障害を解消できる車を紹介してもらいました。 が、実際のところ、障害者仕様の車両は『下肢障害』を意識した作りで、 握る力が弱い『上肢障害』についてはまだまだ発展途上。 改造についても、なかなか受け入れているディーラーはなく、 自力で板金屋さんと交渉して改造するしかない現実を突き付けられました。 ただ、幸い、ディーラーが調べて出してくれた過去の改造例や、 障害者仕様車を扱う板金屋さんを紹介してくれたおかげで、 直に電話でのやり取りの末、ギアを改造してもらうことができました。 ただし、特注なので、改造後の調整はできても元に戻すことはできない。 地元の板金屋さんでなかったのもあり、 実際にギアを動かすまでとても上安な日々でした。 理想通りの改造をしてもらえて、正直ほっとしました。 (改造については、補助金を出している市町村があるので要確認☆) 後方の確認は基本バックモニター頼り。 そのため、車庫入れの練習は紊車後の実践あるのみ(^^; ・・・これが一番大変だったかもしれません。 近くの広い駐車場に通い詰め、枠に収まるようになった頃、 ようやく車で通勤できるようになりました。 親もしばらくは白い眼でしたが・・・ 今では一緒にドライブに出ることもしばしば。 その後の免許更新で、お世話になった警察署の方に再会し、 無事運転ができるようになったことを報告。 満面の笑みで喜んでくださいました。 親身になって相談に乗ってくださった警察官の方に本当に感謝です。 TOPページに戻る ③恋愛 恋愛に関しては、相手をRAの現実に巻き込むことを避けるべく、 ずっと封印してきました。 いわゆる『おひとりさま』を生き抜く覚悟を決めて、 どんな生き方があるのかを徹底的に調べたり、本を読んで勉強したり。 けれど、そんな中でも出会いはありました。 過去にないくらいの勇気を振り絞って、頑張ったこともありました。 もしかしたら、こういう生き方もあるのかもしれない・・・ そう思えた瞬間もありました。 けれど、周囲の障害者の恋愛に対する向かい風を受けたり、 自分の未熟さもあって、その風に打ち勝つことができませんでした。 なんとか立ち直れたのは『就職』という目標に全力を注いだから。 30代の失恋の精神的な痛手は、想像以上に大きかったです。 けれど、その痛手のおかげで、さらにパワフルになれた気がします。 『仕事』という壁は、失恋という勢いがなければ 乗り切れなかったかもしれません。 恋愛に関しては、40代の大きな宿題です(笑) 今でも上器用なまま、毎日をがむしゃらに生きています。 『これが最後』と思ったこともあったけれど、 もし、こんな私を受け入れてくれる人が現れたら、 自分から逃げずにきちんと向き合おうと思っています。 そのためにも、今は自分に自信が持てるよう、自分の足で歩けるよう、 40代をキラキラと生きていこうと思います☆ |
新たな課題 ~人生の折り返し地点~ |
RA20年の記念の年は、ちょうど『人生の折り返し地点』です。 30代→40代は、20代→30代とは大きく違っていました。 『疲れがとれなくなった』『無理が利かなくなった』 『記憶力が落ちてきた』『気が短くなった』・・・・・・etc。 これは間違いなく『体力の衰え』だと感じてます。 30代までは、まだこんな日が来るとは想像もしていませんでした。 そのくらい急激な下り坂感です(笑) でも、それは『アンチエイジング』というより 『自然なこと』のように受け止めています。 もちろん、健康面はバランスを取らなければならないのは確か。 この辺であらゆるところのギアチェンジが必要なようです。 ホルモンのバランスが変わってくることで、 おそらくRAにも何らかの変化が出てくるのかもしれません。 食生活を調整したり、スリムな生活を意識した断捨離を始めたり・・・ より一層の心のリフレッシュを心がけるようになりました。 幸い、手術からあと数年で20年を迎える膝の人工関節も絶好調で、 今のところ入れ換え手術は必要はなさそうだとのこと。 もうしばらくは頑張れそうです。 ん~、でも、少し心は弱くなったかなぁ・・・ 自分が歩んできた人生は誇れるほど素晴らしいものとは言えないし、 『自分の人生経験がすべて正しい』とは思えません。 堂々とRAを生きている先輩たちのパワーがまぶしくて 目を背けることもあります。 ただ、最近、思うんです。 『いつもニコニコ*^*^* 今日も元気p(^―^)q』のモットーに加えて、 40代は『しなやかに、おだやかに』ありたいと。 人は年齢とともに、これまでの人生が顔ににじみ出てくるといいます。 将来、自分の顔が『般若』になるんじゃないかと 今から心配です(; ̄ー ̄A アセアセ・・・ 殺伐とした世の中でストレスを抱えることも多いですが、 竹のような『しなやかさ』と人を癒す『穏やかさ』を持てる人になりたい。 将来は『おかめ』顔になりたいものです(● ̄  ̄●) |
20年後 ~弟や妹たちへ~ |
人生、1つだけじゃないです。 2つ目、3つ目の人生を見つけられる人になれたら、 未来は必ず輝いてきます。 ・・・と、これは私の持論です(笑) RAってきまぐれで、痛い時もあればだるい時もある。 逆に元気な時も。。。上思議です。 体調任せな生活ですが、せっかく生きているのなら楽しく生きたい。 痛い時も、だるい時も、楽しい方を向いていたい。 気持ちが前向きになれると上思議と体調も前を向く。 ストレスが無意識に体調を悪化させてしまうこともあります。 悪いことばかり見えてしまいがちですが、 ちょっぴり頭から切り離す時間、作ってみませんか? リウマチだってできることが必ずあります。 今できる小さなことから始めてみませんか? 時間ってあっという間・・・ 気づいたら良い薬が普及していたなんてことは、実は普通に起きてます。 そんな風に考えられない!!としたら、今が一番つらい時なのかもしれません。 でも、未来は必ず変わります。ずっと同じじゃないんです。 少なくとも、私の20年前と今とでは全然違います。 医学の進歩で良い薬もたくさんあるし、 絶対無理!と思っていた車の運転も、機能の進歩でできるようになってる! (私の障害自体は当時とほとんど変わってないです) 未来って変わるんです☆ 今できることって何?将来やってみたいことって? いろいろ試行錯誤しながら探してみてください。 あなたは将来どんな自分になりたいですか? |
20年記 |
10年記を経て、20年記へ。 私のリウマチ日記の抜粋です。(準備中(^^; ) 20年目の私がどんな葛藤をしたか、 そして、どんな風に壁を破壊・・・いや、乗り越えてきたか(笑) 血と(貧血ですが(笑))、汗と(汗疹は勘弁(汗))、涙の(ドライアイですが(笑))、 結晶を残しておこうと思います(笑) |